沿道のコラム

(3)ボロ市木もれ陽散歩(上町駅−砧公園4.9Km)

 
 かつてのボロ市の様子を、徳富蘆花はこう記した。「見た者は世に一物も無用の物は無いことを悟らねばならぬ」。

1.世田谷のポロ市
 
 毎年12月と1月の15・16日、世田谷代官屋敷前の沿道に「ボロ市」と呼ばれる大規模な露店市が開かれるが、その起源は古く四百年以上も前にさかのぼる。
 天正6年(1578)、世田谷を実質的に支配していた北条氏政は、小田原城と江戸他の中間に位置する世田谷新宿に、市場税を免除して自由に商いができる楽市を開いた。当時は月に6日開かれ、多くの商人が集まって繁盛したという。江戸時代に入り商業の中心が江戸に、交通の中心が東海道に移ると、農村の正月用品や農具・日用品等を扱う、年に一度の市に変わっていった。俗に「ボロ市」の名が使われるようになったのは、明治の半ば以降のこと。東京市民が使い古した古着等の布製品が多く扱われるようになったからで、明治36年(1903)暮れの市を描写した幸徳秋水の「世田谷の襤褸市」によると、全体の約6割を占めたという。この頃には日程も現在と同じにな
っている。
 現在もボロ市の名は残り、駄菓子・骨董品等が扱われる縁日的な催しに変わって、人々の郷愁を誘っている。

2.砧公園の誕生
 
 砧公園の総面積は約38万平方メートル。芝生広場と樹林で親しまれている緑豊かな公園である。
 前身は昭和15年(1940)、紀元2600年記念事業として都市計画決定された砧大緑地。東京を環状緑地帯で囲むことで都市の膨張を抑えようという構想が反映されたものであった。また砧緑地には、平時は東京府民のレクリエーション用だが、戦時は高射砲や照空燈等を置く「防空緑地」としての役割も期待された。緑地が完了したのは昭和17年。
 すでに戦争は始まっており、軍事訓練場も作られたが、食糧事情の悪化から大半は農場として使用された。戦後は、昭和30年に砧ゴルフ場が開設。起伏富んだ地形を活かし公開制のゴルフ場で、コース利用料は一人一日300円。2年後に砧公園が開園してからも、大部分を占めていた。ゴルフ場が廃止され、一般に開放されたのは昭和32年(1957)一日も早く都民に憩いの場所を提供するため、20日間の突貫工事で必要最小限の設備を作り、跡
地をそのまま利用した。その後整地・植栽を重ね現存に至っている。
 公園の一角には昭和61年開館した世田谷美術館がある。の戦死者は266名を数えた。遺体を集め葬った場所に「戦死之墓」(墓碑銘は山岡鉄舟の筆)が建っている。

 

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