見どころ紹介

(3)小石川寺町散歩(茗荷谷駅−菊坂2.4Km)

●小石川植物園
 現在の正式名称は東京大学大学院理学系研究科付属植物園。白山の高台に位置する植物園は、一般にも開放されている。一貫しての研究施設としての役割を果たしているため、木々は伸びやかに育ち、その本来の姿を見せている。桜の開花時期に様々な桜が競うように咲く光景は、花好きだけでなくとも目をひく。日本の近代植物学発祥の地として、現在も自然誌を中心とした植物学の教育・研究の場となっており、特に東アジアの植物研究の世界的センターとして機能している。
 江戸時代、ここの薬草園でできた薬は市民に施され、養生所は施薬園とも呼ばれたという。八代将軍吉宗の時には養生所が設けられた。一隅には徳川綱吉の別荘白山御殿時代より受け継がれた日本庭園、また昭和44年(1969年)に本郷構内より移され、現在は東京大学総合博物館のデジタルミュージアムとして公開されている、旧東京医学校本館の西洋式木造建築がある。

●新渡戸稲造旧居跡
 五千円札の肖像で知られる新渡戸稲造は、内村鑑三らと共に札幌農学枚でクラーク博士の薫陶を受けた農学者・教育家。初の日米交換教授としてアメリカの大学で講義をする一方、大正9年(1920)よリ6年間、国際連盟事務局次長を務めた。英文著書『武士道』は、ルーズベルト米大統領の愛読書でもあったといわれる。

●切支丹屋敷跡
 もとは切支丹宗門改役奉行、井上政重の下屋敷。正保3年(1646)ここに牢や番所を建て、宣教師や信者を収容した。

●念速寺(美幾(みき)女の墓)
 かつて遊女であったともいわれる美幾女は、明治2年(1869)自らの死を予感、解剖のための遺体提供に応じた。特志解剖第一号となった彼女の決断は、近代医学の発展に大きく貢献したとされる。

●慈照院(辰巳屋惣兵衛の墓)
 辰巳屋惣兵衛は、享保18年(1733)生まれの遊侠人。墓石には娘姿で踊る惣兵衛が彫られているが、彼の女装しての踊りは絶品で、神田明神などの祭礼で人気を博した。また福聚院門前に開業した茶漬飯田楽豆腐屋は大いに繁盛したという。

●徳川慶喜終焉の地
 小石川生まれの慶喜は、明治30年(1897)隠棲先の駿府(静岡)より帰郷、一時巣鴨に住んだ後、旧水戸屋敷に近いこの地で残る生涯を送った。大正2年(1913)死去。

●永井荷風生育の地
 永井荷風は、明治12年(1879)に生まれ、26年飯田町に移るまでこの地に住んだ。この界隈の記憶は後に、小品『伝通院』として結実している。

●福聚院
 安永4年(1775)の創建とされ、大黒天を祀る。門を入った右手に、首に唐辛子のレイをかけているとうがらし地蔵がある。またの名を「咳どめ地蔵」といい、喘息など喉の病気に
御利益があるといわれる。

●処静院(しょじょういん)跡
 浪士隊(後の新選組)がこの地で結成されたのは文久3年(1863)のこと。この時、近くにあったという試衛館道場より近藤勇ら多くが、隊員として参加した。

●萩の舎(や)跡
 明治の歌人中島歌子が主宰した歌塾。最盛期には弟子数が千人余を数えたという。明治19年(1886)、14歳の樋口一葉が入門、和歌や古典の読解に才媛ぶりを発揮した。

●北野神社(中島歌子の歌碑)
元暦元年(1184)源頼朝による創建とされ、菅原道真を祀る。境内には、萩の舎を主宰した歌人中島歌子の歌碑がある。

●源覚寺(こんにゃくえんま)
 寛永元年(1624)創建。浄土宗。本堂の閻魔像は木造で、銘には寛文12年(1672)作とある。昔、眼をわずらった老婆が21日間にわたり願をかけたところ、満願の宵に閻魔が夢枕に現れ、自らの眼球をえぐり老婆に分け与えた。以来、老婆は好物のこんにゃくを絶って御像に供えたといわれ、眼病に御利益のあるこんにゃくえんまとして人々の信仰を集めた。今でもこんにゃくが供えられている。

●嫁入橋跡
 「嫁入橋、源覚寺門前にあり。小石川の流に架す橋なり」(『東京名所図会』)。元の名は、源覚寺橋。昔、界隈の地主が嫁を迎えるにあたり橋の大改修をしたのがその名の由来とされているが、今はない。

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