沿道のコラム

(4)一之江名主屋敷散歩(瑞江大橋−瑞江駅3.5Km)

 一之江の地名の由来となった旧一之江新田を開拓したのが、代々名主を務めた田島家。名主屋敷が当時の面影を伝えている。

    1. 今井の渡し

1.一之江の名主

 江戸時代の村は、村役人すなわち名主、年寄(組頭)、百姓代によって管理を任されていた。江戸川区内の名主を務めた家の大半は、その村の開拓に当たった「草わけ」と呼ばれる有力者たちの子孫であった。一之江新田を開発した田島図書も、そうした「草わけ」の一人であった。堀田図書という豊臣方の武士が、大坂の陣の後に関東へ移り、大杉の田島家に身を寄せた。以後田島の姓を名乗った図書は、元和3年(1617)ごろから一之江新田の開拓を始め、この地の草分けとなった。子孫は明治維新に至るまで、代々名主を世襲している。
 江戸時代の名主は、最大の義務である年貢納入を始め、戸籍事務、村民の願書・契約書等の奥書、道橋普請など、村経営の重要な業務を担っていた。そして名主の自宅はそうした事務を執る役所を兼ねていたので、多くは長屋門を持つ威風ある表構えで、名主屋敷と呼ばれていた。一之江に今も残る田島家の名主屋敷の内部には、正面式台奥にひときわ黒光りのする柱が1本ある。一名「もたれ柱」と呼ばれ、名主がこの柱に寄りかかって座り、農民の悩みや訴えを開いたと伝えられる。
 屋敷は寄棟茅葺きの主棟と入母屋茅葺きの曲がり棟の「曲がり家」である。主棟の奥座敷の天井の竿の方向、南側の敷居が板戸2枚と明障子1枚の三本溝等江戸初期の様式を伝える。曲がり棟の土間は中央の大黒柱を境に、かまどのある勝手と農作場に分かれており、農作場の北側の壁全面に枡(=こめびつ)が設けられている。一般的には種籾の収納用に使われたもので、種蒔きの時期別に箱に納めるものであるが、当家のそれには箱に記号が書かれており、その規模の大きさから、預かった年貢米も入れていたという説もある。いずれにしても、田島家の繁栄がしのばれる。

2.東京湾の埋立てと都市開発

 江戸時代以来、およそ400年におよぶ埋立ての歴史は、各時代の最先端の街が海に向かって発展してきた歴史でもある。
 徳川家康が江戸入府後まもなく着手したのは、当時城に面していた日比谷の入江を埋め立て、城下町を建設したことだった。以後江戸市街の拡大とともに、銀座、築地と海に向かって伸びていく造成地には、武家屋敷が立ち並び、両替町や魚河岸、芝居町などが生まれにぎわった。
 明治時代には富国強兵策と結びつく造船業の発達が、埋立地造成の新たな契機となった。明治18年(1885)から29年(1896)にかけて、造船場のある石川島(現佃2丁目)、月島1・2号地が埋め立てられ、一大工業団地を形成する。関東大東災後にはそこで働く労働者たちのために、ガス、水道完備という当時としては画期的な集合住宅が建てられた。これが現在の月島に残る二階建長屋である。
 大正15年(1926)、震災後の復興工事によって、大型船が接岸できる近代埠頭が開設されると、水深を大きくとる必要から大量の土砂が浚渫され、その捨て場としても埋立地が造成された。埋立地の背後には運河が開削され、倉庫や工場の建ち並ぶ流通経済拠点が生まれた。近年のウォーターフロントブームで脚光を浴びた芝浦の倉庫街も、このときに生まれたものである。この埠頭整備が、昭和16年の国際港としての東京港開港に結びついた。その後、京浜運河、夢の島の飛行場、万国博覧会などが東京湾を舞台に計画されるが、戦時体制が強化されるなかで京浜運河以外は実現をみなかった。
 戦後から高度経済成長期にかけて、東京湾の埋立ては飛躍的に進行した。昭和30年代に入ると、首都圏の機能集中・人口増加に対応し、都市空間の拡大を主目的とした東京湾開発構想が提案されるようになる。丹下健三の「東京計画・1960」は、現在の都心と東京湾の対岸の木更津を海底道路で結び、東京の1千万人口に対応した都市機能の改造を提案したものであった。この他にも、東京湾の北半分の2億坪を埋め立てる「ネオ・トウキョウ・プラン」(産業計画会議)などが次々と発表された。これらの構想はそのままの形では実現されていない。しかしその後の都市計画の指針となり、東京湾横断道路計画など臨海部の開発に生かされている。

3.今井の渡し

 江戸時代、防衛上の理由から、中川や江戸川には橋を架けることが許されなかった。交通はもっぱら、渡しによって支えられていたが、幕府によって公認されていたのは小岩・市川の渡しのみであった。江戸川筋の今井の渡しをはじめ区内の他の渡しは、生活上の必要から農作業時のみなど限定条件つきで、認められていたものだった。
 その後今井の渡しは、下総国への要衡として成田参詣の人々に親しまれるようになり、江戸名所図会にも描かれた。天保年間(1830〜44)ごろの記録を見ると、「女は今井を通さず、河原の傍の前野の渡へ廻る」と示されている。「入鉄砲に出女」といわれたように、非公認の今井の渡しでさえも、女性の通行には監視の目が行き届いていたことがうかがえる。なお、前野の渡しは、今井の渡し同様、非公認の渡しで、上流の篠崎ポンプ場(東篠崎2丁目)付近にあったといわれる。
 明治に入ると、防衛上の交通規制が不要となり、明治45年(1912)に下江戸川橋が架けられ、今井の渡しの歴史は幕を閉じた。現在は三代目の今井橋が架けられている。

 

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