沿道のコラム

(2)葛西さざなみ散歩(西葛西四丁目−葛西臨海公園2.9Km)

 人工渚が広がる葛西臨海公園。水族園、鳥類園、展望レストハウス・クリスタルビュー、ホテルシーサイド江戸川からなる。水族園のガラスのドームに加え、観覧車が夜の空を彩る名物になった。

    1. 夢の島と新木場
    2. 江戸のゴミ事情

1.葛西浦と海苔

 海苔といえば浅草海苔。その歴史は天慶年間(938〜947)のころ、浅草観音の霊験によって隅田川に海苔が生えたのが始まりとされ、江戸時代には浅草は海苔のブランドとして定着していた。ところが海苔がバッタリ採れなくなる事件が起こった。元禄16年(1703)の大地震によって河口の地形が変わり水が合わなくなってしまったのだ。そこで、品川や大森、そして葛西で作られたものに、浅草海苔の名をかぶせて売るようになったのである。
 葛西浦で海苔づくりがいつごろから始まったか正確にはわかっていない。寛永年間(1624〜44)に書かれたといわれる『毛吹草』の「諸国名産下総図」には、「葛西のり是浅草のりといふ」とあり、すでに葛西で海苔の生産が始まっていたことがうかがわれる。
 しかし、江戸時代の中ごろまでは海中に自生した海苔をかき集めていた程度で、本格的に養殖が始まったのは文政年間(1818〜30)からといわれている。
 明治に入ると、海苔を含めた葛西浦の漁業は衰微してしまう。しかし、このころ、東宇喜多村の森興昌などが養殖技術の研究を始め、当時の主生産地、品川大森の養殖場に潜入し、命を狙われながらその方法を学びとるなど非常な苦労をしたことによって、明治20年(1887)前後から再び葛西浦での海苔養殖は活発になった。明治42年(1909)には葛西浦のみで7万坪に及ぶ養殖面積となり、さらに大正13年(1924)にはその3倍にも達し、昭和30年ごろ最盛期を迎える。しかし、相次ぐ埋立てや水質汚濁の影響を受けて、急速に養殖環境は悪化していった。そして昭和37年、ついに全面的に漁業権を放棄。長い歴史を持った葛西海苔の養殖は終止符を打ったのである。

2.葛西の発展

 西葛西周辺など新川以南の地域は、昭和40年代に始まった土地区画整理によって生まれた街並である。
 それまでの江戸川区は、交通の便が悪いうえに、頻繁に水の被害を受けていた。もともと海抜の低い土地が地盤沈下の影響でさらに低くなり、また、江戸川や中川など大小様々な河川の河口部でもあるため、台風、梅雨はもちろん、ちょっとした降雨ですぐに床下、床上浸水となった。
 当時の東京は生活環境悪化から、周辺地域への人口流動が激しくなり、都心のドーナツ化現象が起きていた。江戸川区では、昭和30年に25万4千人であった人口が40年に38万3千人、45年には44万5千人にも膨れ上がった。急激な人口増加のため、農耕地などに違反建築をして住み込む人も多かった(『江戸川区区画整理事業十年の歩み』)。
 こうした状況を打開するため、懸案だった区画整理が具体化する。昭和39年、「長グツをはかなくてもよい生活」をスローガンに始まった「江戸川区総合開発計画」は、東京大学八十島研究室の調査結果を基礎として、翌40年建設省の認可を得てスタートする。開発計画の目的は住宅地の造成、道路・河川の整備、商業地の拡充であった。
 この大事業を後押しするように地下鉄東西線が東陽町以東、葛西を通り船橋方面へ延伸することか確定した。昭和58年には、埋立地にできた高層住宅への入居も始まるなど、新しい街が次々に誕生した。
 平成元年の葛西臨海公園が完成以降、ウォーターフロントの名所がにぎわっている。

3.夢の島と新木場

 「夢の島」の名称で知られる14号埋立地の歴史は戦前まで遡る。太平洋戦争目前の昭和14年、飛行場建設のために埋立て始めたのだが、2年後に資材不足で中止。戦後は一時海水浴場としてにぎわい、その後昭和32年からゴミ処理場として埋立てを再開した。
 昭和40年6月には、いわゆる“ハエ騒動”が起きた。この年は雨が多く、毎日2、3回起きていたゴミ山の自然発火が比較的少なかったために、ハエの卵や幼虫が焼け死なずに大量発生したのだ。夢の島に最も近い南砂町(現東砂7、8丁目)では、小学校の授業が打ち切られるほどの被害となり、この騒ぎは3週間続いた。鎮圧には自衛隊まで出動し、陸と空から焦土作戦が行われた。
 埋立てが終了したのは昭和42年。埋められたゴミ総量は1033万tだった。53年にはそこに広大な「夢の島公園」がオープンした。また、夢の島は帰化植物の繁殖地でもあり、オーストラリア、南アメリカ原産のユメノシマガヤツリなど、200種以上が自生している。ゴミ島の当時を思えばまさに夢のような変わりようである。
 さて、夢の島公園の南側は新木場である。深川の木場にあった貯木場が移転してきたのだが、そもそもこの木場町自体、寛永18年(1641)の大火の後に、日本橋にあった木場が永代島に移され造られた町なのである。昭和30年ごろより、戦後の都市化の進行から移転の話が持ち上がったが、移転計画に大きくはずみをつけたのは、昭和34年の伊勢湾台風だった。繋留されていた原木の大量流出により、護岸を破壊され被害をさらに大きくしたのである。
 再び生まれ変わった材木町新木場は、約112万uの土地、48万uの水面貯木場を有し、流通・販売の拠点として、企業数、生産設備、出荷数いずれも日本一の規模を誇っている 。

4.江戸のゴミ事情

 明暦元年(1655)11月、江戸市中に新しい法令が出された。今後ゴミは全て永代島に捨てよというものである。当時の永代島は富岡八幡宮の周辺を除けば葦茂る湿地で、すぐ先はもう海だった。このように、ゴミを都市の外へ持ち出して埋立てに使うという現在の東京のゴミ処理法は、江戸時代にすでに始まっていた。
 しかし、形式は似ていてもゴミをめぐる事情に大きな違いがあった。現代のようにものの溢れた時代とは異なり、江戸のころはものが少なく大切に使うのが当たり前で、ほんのわずかしかゴミにならなかったのである。使えるものは全て徹底的に再生され再利用された。衣服は破れたら縫い、継ぎ当てをして長い間着古された。下駄は鼻緒をすげ替え歯を入れ替え使われたし、傘や提灯は専門の業者が張り替えて再生した。他にもなべ釜の修理は鋳掛け屋、鍬や鎌の柄を取り替える棒屋、キセルの竹管は羅宇屋(らおや)など、修理専門の商売が成り立っていた。
 使い切って修理がきかなくなったものは原料資材となった。紙は漉き返し、金属は溶かして再生できるので買い歩く者がいた。かまどの灰でさえ、まだゴミではなかった。昔の灰は純粋な植物性だからアルカリ性物質として、肥料の他にも製糸、製紙、染色、洗濯、酒造など用途が多かったのだ。
 こうした徹底的なリサイクル社会でも、処理できないゴミがあった。それは火事などの残土である。火災の多かった江戸では、灰のまじった土や焼けた瓦などが大量に出た。これをどう処理するかが大問題だった。放っておけば、無秩序に堀や川へ投棄される。それは江戸の動脈である水上交通の大きな妨げとなる。そこで考え出されたのが、埋立てへの利用だった。
 以後、投棄する場所は永代島・越中島から中央防波堤外側へと移り、現在もゴミによる埋立てが行われている。

 

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