沿道のコラム

(1)下谷縁日散歩(上野駅−鷺神社2.8Km)

 上野山下から広小路にかけては、江戸以来の繁華街。東京最古の演席、鈴本が開かれたのは幕末のことであった。

    1. 江戸の演芸

1.日本鉄道の上野停車場

 上野駅が開業したのは明治16年(1883)7月28日、“日本鉄道会社”の上野一熊谷間開通のとき。この会社は民営で、最初の私設鉄道であった。上野公園下に“上野停車場”が建設された頃、上野は寛永寺の門前町として栄え、東京中から人の集まる盛り場の中心だった。また周辺の土地は荒川流域の平坦地で、工事も比較的容易であるとの地理的条件も手伝って、日本鉄道の東京の起点として上野
が選ばれたのである。
 日本鉄道の開設は、明治新政府の右大臣であった岩倉具視の先見によるところが大きい。日本の近代化と経済の発展のためには、東京を中心とする交通網の完備が必要と岩倉具視は考えた。上野を起点とする鉄道をまず高崎まで開通させれば、そこからさらに青森・新潟方面にまで延ばすことができる。また、北陸方面に延ばせば、敦賀を経て京都に到り、さらに九州にまで通じる全国的な鉄道網を実現できるのである。
 日本近代化に向けた日本鉄道会社の記念すべき第1号機関車の名は“善光号”であった。午前と午後一度ずつの運行で、「中等」の乗車賃57銭。上野停車場には、善光号の姿を見物にくる人々が列をなしたという。明治37年に日露戦争が勃発すると重要な輸送機関である鉄道の国有化の議論が高まり、39年、日本鉄道も他の私鉄と共に国有化されたのだった。

2.上野広小路界隈

 上野広小路は、かつて下谷広小路とも呼ばれていた。下谷と呼ばれる地域は時代によって変ってきたようだが、『御府内備考』には「今下谷と唱ふる四域は南の方外神田に境ひ、北は小塚原・中村町、東は浅草、西は湯島・本郷・根津に続き、西北の間上野の地差入て最も広き地名となれり」と記述されている。下谷という地名は、そこが湯島・本郷・上野の高台の下であることに由来するようだ。下谷広小路は、現在の松坂屋新館付近から上野公園入口までの現中央通りを呼ぶ俗称であった。将軍が寛永寺に参詣する際の道筋(御成道)の一部が、明暦の大火(1657)の後、類焼を防ぐ目的で拡幅されたのである。これら、火除けのための空地が広小路と呼ばれ、下谷は浅草・両国と共に三大広小路のひとつである。
 下谷と両国の広小路は、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、にぎやかな繁華街となった。東京最古の寄席鈴本演芸場や、明治以来の本牧亭などが往時の盛り場のにぎわいを今に伝えている。
 下谷広小路の南部は、御徒士組の下級武士が住む屋敷が多く、俗に御徒士町と呼ばれていたのが、現在も山手線の駅名(御徒町)として名残りをとどめている。

3.入谷朝顔市

 江戸に朝顔ブームがまき起ったのは、文化年間(1804−1817)のこと。植木屋たちは鉢植えの朝顔を提げて路地から路地へと売り歩き、庶民に鉢栽培が普及していった。
 文化元年に生まれた斎藤月岑は大変な朝顔好きの文化人で、売りにくる朝顔の鉢を次から次へと買い求め、その朝顔が40も50も咲くのを毎日数えては記録するほどの入れ込みようだったという。月岑の万延2年(1861)6月15日の日記には、朝顔市が入谷の長松寺前の通りで開かれ、三日間客で混雑したことが記されている。
 当時の入谷は、俗に入谷田圃と呼ばれる水田の多い土地で、朝顔の栽培に通しており、また、植木屋が多く集っていたことなどから、明治時代にかけて朝顔市のメッカとして名を馳せた。最盛期の明治24年(1891)頃には18軒あった植木屋も、その後、入谷の市街化と共に減ってゆき、大正2年(1913)、最後まで残った“植松”の廃業で、入谷の朝顔は消滅してしまう。現在の朝顔市は昭和25年、地元の人々によって再興されたもので、毎年7月6〜8日、入谷鬼子母神境内を中心に開催され、往時をしのぶにぎわいをみせている。

4.江戸の演芸

寄席の成立
 現在東京で最も古い伝統を持つ寄席は、上野鈴本演芸場で、安政4年(1857)初代仙之助が上野広小路に開いた「軍談席・本牧亭」が明治9年(1876)に鈴本と改名して今日に至った。安政年間、江戸には1752軒もの寄席があったという。
 今日寄席といえばまず落語をイメージするが、式亭三馬の『落話中興来由』に、「浄瑠璃、小唄、軍書読み、手妻、八人芸、説教、祭文、物まね尽しなどを業とする者を宅に請じて席の料を定め看客聴衆を集る家あり、比講席、新道・小路に数多ありて、俗に寄せ場或はヨセと略しても云う」とあるように、そもそもは様々な芸能で客を集め木戸銭を取る「寄せ場」であった。
 江戸の落語専門の寄席は寛政10年(1798)、大坂からきた岡本万作が神田豊島町藁店の民家に「頓作軽口ばなし」の看板を掲げて興業したのが始まりだった。これは落語寄席のはじめというばかりでなく、江戸落語の隆盛に火をつける多大なインパクトをも
たらした。上方からきた岡本万作に対抗意識を燃やした江戸ッ子櫛職人山生亭花楽が、三人の仲間と共に下谷柳町の稲荷神社境内の建物に「風流浮世おとし噺」の看板を出して寄席興業を打ったのである。ところがこれは、大失敗に終わった。もとより素人花楽たちのこと、芸は未熟だし、咄の種もすぐ尽きて、わずか5日で挫折した。だがこの敗北が、逆に22歳の血気盛んな若者の心を燃えたたせたのだった。プロの噺家になろうと心を決めた花楽は、その年の9月28日、目黒不動尊に参詣して大願成就を祈願するや家にとってかえし、家財道具一切を売り払うと、地方回りの修業の旅に出たのであった。その折、武州越ヶ谷での寄席興業が大当たりし、次に赴いた松戸にて、客のすすめに従い三笑亭可楽と改名した。この修業の旅で新境地を開いた可楽は江戸へ帰り、寛政12年、噺家三笑亭可楽としての最初の落語会を柳橋で開催し、成功をおさめたのである。
 可楽はそれ以後も芸道に精進し、新作を発表する一方、三題咄という新趣向を開拓して江戸一番の人気噺家となるに到る。こうして可楽は江戸での寄席興業を軌道に乗せると共に、落語を中心とする寄席演芸の形態を確立した。また、三笑亭夢楽(朝寝坊夢羅久)・林家正蔵・船遊亭扇橋・山遊亭猿生(三遊亭円生)などの傑出した門人を輩出し、一代で江戸落語の全盛時代を現出させたのである。
参考:関山和夫著『落語名人伝』他


江戸盛り場名人伝
 江戸の盛り場で行われた見世物は、品玉・手品・軽業・刀の刃渡り・玉乗り・筏乗り・角乗り・力持・曲鞠・曲持・曲馬・曲ごま・曲づき・曲吹き・八人芸・百眼・七面相・南京操り・からくり・吹矢等々、かなりの種類にのぼり、高度の芸に達した名人も少なくなかったという。これらの見せ物でも、小屋仕掛けで有料の興業を行う芸人もあれば、露天で芸を演じて観客の投げ銭を受けることを目的とし、客寄せのアトラクションとして芸を演じる香具師など様々であった。
 たとえば、明和6年(1769)5月の浅草寺奥山では、吉十郎河原節寄せ長唄、松井源水独楽廻し、芥子之介の品玉、豆蔵どぜふ太夫、からくり、女相撲、竹田からくり、子供角力、子供狂言、力持、早川虎市力持軽業、春山歌之介かる業、難波珍蔵が腹の曲、大蝦蟇、嵐八重次軽業、反魂丹の居合ぬき、などが群衆の人気を集めていたことを蜀山人大田南畝が『半日閑話』に記している。「反魂丹の居合ぬき」とは、越中富山の反魂丹の売薬免許を武田信玄から得たという伝承をもつ歯みがき売りの松井源左衛門や長井兵助の居合い抜きのアトラクション。「品玉」の芥子之助は、豆と徳利を手玉にとったり、鎌を投げて空中で豆を切ったり、その他手品や早替わりの芸で客を驚嘆させた。松井源水は曲独楽の名手として有名で、八代将軍吉宗は、鷹狩りの帰りにたびたび源水の至芸を見物に寄ったといわれる。源水は、30キロもある大独楽を廻したり、日本刀の刃の上や扇子や綱の上を渡らせる妙技を演じた。源水の妙技は代々伝えられ、幕末の13代松井源水は10人の弟子を共にアメリカの興行師ベンクツに傭われ、アメリカやフランスのパリ万国博で演じて好評を博した。ベンクツ傭われて海外公演に出かけた芸人たちは他にも多く、彼らの名人芸は浮世絵のように海外で高い評価を得たのだった。

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