沿道のコラム

(4)東高野みち散歩(中村橋駅−石神井公園4.2Km)

 長命寺は江戸庶民の霊場として、東高野と讃えられた古刹。境内には多くの石仏や供養塔の他、練馬区内最古の梵鐘が残る。

    1. 練馬の農業

1.豊島氏の興亡

 平安期末頃から武蔵国にあった豊島氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に協力して以来、平塚城(現上中里付近)を本拠として石神井川沿いに勢力を拡大。その要所に練馬城や石神井城を構え、遂には現在の台東区や葛飾区から北区、足立区、練馬区等を含む広大な南武蔵国の領域を支配下に治めた。
 その後の室町時代、関東地方は、いわゆる関東動乱の時代へと突入。東国盟主の座をめぐる熾烈な謀略や争乱のなか、豊島氏はよくその勢力を保ち続けた。ところが15世紀中頃から武蔵国の勢力地図に異変が生じる。江戸城築城で知られる太田道灌の登場である。新勢力の出現に、豊島氏は次第に衰弱していくのである。
 当時、東国の権力中枢であった関東管領執事職は山内、扇谷の両上杉氏に分裂し、争いが絶えなかった。そして豊島氏は山内方の重臣長尾景春に仕え、道灌は扇谷方を主家としていた。
 この対立関係が、文明8年(1476)長尾氏の反乱を機に爆発する。ここぞとばかりに勢力挽回を図る豊島氏の当主泰経は、長尾方と組んで太田道灌包囲の布陣を構える。ところが長尾方の諸城はまたたく間に陥落。いつの問にやら、当の豊島氏側が孤立無縁となっていた。
 つづく文明9年4月、豊島軍は江古田原沼袋にて道灌軍と凄絶な合戦を行うも惨敗。泰経は辛くも石神井城へ逃げ延びるが、城は道灌軍の激しい追撃により遂に陥落。ここに豊島氏の南武蔵国支配は終わりを告げた。

2.石神井公園と三宝寺池

 石神井公園は、石神井池と三宝寺池という趣の異なる2つの池を有する公園である。
 石神井池は、昭和8年、水田に三宝寺池の水を堰止めてつくられた人工池で、上野不忍池と共に都内有数のボート池として人気を集める。
 中島に弁財天の祀られた三宝寺池は、井の頭池、善福寺池と共に武蔵野の3大湧水池のひとつとされ、昔から豊富な湧水で知られた。周囲には武蔵野の面影を残す雑木林がうっそうと茂り、南側崖上には石神井城址が残る。石神井川流域の支配者であった豊島氏が、本場を平塚城からここへ移したのは鎌倉時代末頃のこと。三宝寺池は当時すでに石神井川第一の水源として重視されていたのである。また江戸時代には流域の村々に豊富な農業用水を供給する一方、将軍家の御鷹場にも指定され、江戸西郊の名勝地として賑わった。
 そんな三宝寺池には、多くの伝説が語り継がれている。特に有名なものは、うなぎのような頭に耳のはえた龍神が池の主であるとする伝承であるが、他に頭に鳥居の形のある魚がいて、これを捕獲すると罰が当たるといった言伝えもある。また、池の底には金の鞍など豊島氏の財宝が埋められているともいわれ、明治の末以降、幾度か宝捜しも行われている。
 なお、池周辺には城址の他、文明9年(1477)石神井城落城の際、池に身を投げて果てたといわれる豊島泰経と娘の照姫(弟泰明の妻ともいう)の霊を祀った塚があり、往時を偲ばせる。

3.練馬の農業

 江戸以来、練馬の歴史は農業の歴史であった。地域の住宅化が進んだ今日においてもその関係は変わらない。たとえば現在、練馬区に残る農地は約500ヘクタール。これは23区でもトップを誇る面積である。また栽培作物の中心であるキャベツは、年間約80万ケース(1ケース12個)を都民に出荷。その豊作不作は消費者物価にも影響を及ぼすといわれる。
 そんな練馬区では近年、区民と農業のふれあいを促進する様々な事業が行われている。そのひとつが練馬大根の復活。一時は消滅が心配された練馬大根も、今では練馬区とJA三農協が協力し、年間6,000本を作付け。収穫の半分を毎年11月の練馬区主催の品評会で無料配布している。またJA練馬では区内の緑地保全と農業の振興を目的に、後継者の不在等の理由から農業が営めない方々の農地を借り、昭和51年よりファミリー農園を開設。これは農地を区民に貸し与え、作物の選定や植え付けから肥培管理までを援助指導する事業で、開設以来、多くの区民に親しまれている。

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