沿道のコラム

(3)練馬すずしろの道散歩(中野区立歴史民俗資料館−中村橋駅4.3Km)

 練馬大根は江戸以来の練馬の名物。現在の千川通りの一部は、農民たちが夜を徹して江戸へと大根を運ぶ道であった。

    1. 武蔵野鉄道と農業

1.練馬大根の道

 古くからすずしろの名で親しまれてきた大根。なかでも練馬に産出した練馬大根は、大根の代名詞となるほどの知名度を誇った。この品種は他の大根に比べて細長くスマートなのが特徴で、特にたくあん漬けに最適だったことが人気を呼ぶ大きな理由となった。ちなみにたくあん漬けが考案されたのは江戸初期のことで、その名前の由来は、保存食としての「貯え漬け」が変化したとも、品川の東海寺の沢庵和尚が考えだした漬け方だからともいわれる。
 練馬が大根の名産地となった理由については、五代将軍綱吉にまつわる伝説が伝えられている。延宝年間(1673〜81)頃のこと、上州館林城主だった若き日の綱吉は重い脚気を患った。ある陰陽師(占い師)によれば、綱吉の当時の名前である右馬頭(うまのかみ)にちなんで、馬の字のつく地で療養すればよいという。これを聞いた綱吉は、さっそく方角のよい下練馬に別邸を設けて転養した。そこで、試みに大根の名産地だった尾張から種子を取り寄せ、近所の農家に作らせたところ、長さ3尺(約1m)、重さ2貫(約8kg)の美味な大根が探れた。以降、村民たちに大根の栽培を命じて献上させ、諸大名にもこれをふるまったという。
 伝承の真偽はともかく、練馬は江戸近郊の農村地帯として新鮮な野菜を供給できる地の利をもつうえ、関東ローム層の黒腐食土は根菜類の栽培に最適だった。また綱吉や八代将軍吉宗が積極的に大根栽培を保護したこともあり、元禄年間(1688〜1704)以降、練馬大根は全国に知られる練馬の名産品へと成長していったのである。
 その後も明治、大正時代を通じて発展を続けた練馬の大根栽培は、昭和の初期に最盛期を迎え、たくあん漬けに加工された練馬大根は、中国をはじめ海外へも大量に輸出されるようになった。
 ところが昭和8年を境に、練馬の大根栽培は衰退することになる。その直接の原因となったのは、バライス病をはじめとする病気害虫の度重なる大流行。
 さらに大戦後、地域の宅地化や食生活の洋風化に対応したキャベツ栽培などへの切り替えが急速に進むと、練馬と大根の関係もいつしか終わりを告げることになった。

2.首つぎ地蔵 練馬区中村南3-2-19

 昭和初期のことである。護国寺地蔵講信者の守谷氏と、さる美術院長の正木氏は何とも奇妙な体験をした。二人は同じ夜に同じ内容の夢を見たのである。それは地蔵尊の首が落ちるという不思議な夢であった。当時、正木宅の庭先には出所不明の地蔵の首が置かれていた。夢枕に立ったのはこの地蔵様に違いない、そう考えた二人は、首のない地蔵を求め、中村の道端に捜し当てた。これに正木宅の地蔵の首を乗せたところ、ピタリと一致。二人はさっそくその首を胴に継ぎ、祀ったという。折しも、勤め人は首のつながることばかりを願う大不況の時代。噂が噂を呼び、首つぎ地蔵への参拝は一躍、大ブームになったという。当時以来の不況の時代、リストラ除けにと、今も参拝者が多いとか?

3.江古田獅子舞

 江古田氷川神社の例祭当日、勇壮で大がかりな獅子舞行列が旧名主宅を出発し、町内を練り歩く。江古田獅子舞は服装から演出に至るまで古来の様式を正確に受け継いだ貴重な民俗芸能である。行列は大獅子舞、中獅子、女獅子の三匹獅子を中心に、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神や花笠、獅子、笛方、太鼓、神輿、花方燈山車などで構成され、まるで絵巻物のような世界が展開されていく。さらに行列が神社に到着すると、三匹獅子による神前の舞、舞楽殿での舞が演舞される。境内は次第に暗くなり、江戸時代に将軍家の上覧を受けて以来、使用を
許されたという「御用」の文字の提灯に明かりがつく。古式豊かな風雅を伝える獅子舞は、江古田の秋を彩る一大行事である。

4.武蔵野鉄道と農業

 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋−飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
 その後、震災を機に沿線の開発が進められ、通勤客も増大したが、昭和初期の大恐慌が同社を直撃。同社は、料金未払いから電力会社に電圧を下げられ、列車がノロノロ運転するほどの深刻な経営危機に陥る。そこへこの危機から同社を救うきっかけが、やはり沿線の農業であった。第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、川越芋の産地を擁した西武鉄道は、芋買い出し電車として一躍、殺人的な混雑ぶりを誇るまでになったのである。
 また“黄金列車”と呼ばれた車両の運行が始まったのもこの頃のこと。当時、下水施設の完備しない戦時下都心は、人手や輸送手段の不足から糞尿の処理に頭を悩ましていた。一方、郊外の農付ではそれを肥料として利用で
きる。そこで武蔵野鉄道は専用車両を新造して、糞尿の郊外への輪送を開始。昭和28年3月まで続けられたこの事業は、終戦後の食糧増産にも役割を果たし、都民からも沿線農民たちからも深く感謝されたのである。

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