沿道のコラム

(2)寺町哲学堂散歩(東中野駅−中野区立歴史民俗資料館3.2Km)

 江戸の名士達の眠る上高田の寺町。明治の精神が息づく哲学堂公園。東京の近代化は、郊外に新たな名所を育んだ。

    1. 野菜不足だった江戸人
    2. 近郊野菜の生産地

1.上高田の寺町

 江戸期から明治にかけての上高田の一帯は、あたり一面に広がる田畑の問に点々と雑木林が残る典型的な武蔵野の農村地帯であった。台地には、陸稲や野菜が植えられ、晴れた日には遠く富士山や秩父の峰々を眺めることもできたという。
 もとは都心にあった寺が東京市により計画的にこの土地へ集められ、寺町を形成することになったのは、明治39年(1906)から大正の初めにかけてのこと。移転の理由は大きく二つに分けられ、浅草方面から移転してきた寺院は主に市内の区画整理によるもの。四谷、牛込などからきた寺院は多く博覧会々場や明治神宮の敷地確保にともなうものであったという。
 現在、上高田1丁目界隈に10寺、4丁目に6寺ある上高田の寺町は、大名や藩主たちの菩提寺や祈願寺など由緒を誇るものが多く、政治家や学者、芸術家など歴史上高名な人物たちの墓や供養塔も多くこの土地に集まることになった。
 そのひとつが高徳寺に残る新井白石の墓。白石は六代将軍家宣および七代将軍家継に仕え、貿易の制限と国内産業の開発、通貨の改良等、世に正徳の治(1709〜16)として名高い政治を行った儒学者。
 他に江戸庶民にゆかりの人物としては、寛政年間(1789〜1800)、江戸有数の狂歌師と謳われた朱楽菅公(あけらかんこう)の墓が青原寺に、鼠小僧など義賊を主人公にした生世話(きぜわ)狂言で知られる河竹黙阿弥の墓が源通寺に、春信の浮世絵などで江戸三美人のひとりに数えられた笠森お仙の墓が正見寺にある。
 また、萬昌院功運寺にある吉良上野介他吉良家四代の墓をはじめ、江戸城松の廊下で刃傷におよんだ浅野内匠頭を抱きとめたことで知られる梶川怱兵衛の墓(天徳院)など、忠臣蔵のモデルとなった赤穂事件に関係した人物たちの墓も多くこの寺町に残されている。

2.”妖怪博士”井上円了

 東西の思想を統合し、明治以降の学問に新たな道を開いたとされる哲学者井上円了。実は、博士こそ日本初の妖怪退治のスペシャリストであった。といっても博士が特殊な霊能力者だったというわけではない。ここでいう妖怪とは、広い意味でのオカルト現象にまつわる迷信や俗説の事。博士は、そうした迷信の類が社会的にも宗教的にも様々な害悪と混乱をもたらすと考え、哲学的な合理精神を武器に自らその打破にうって出たのである。
 そんな博士の活動は、明治19年(1886)在学中の東京大学内に「不思議研究会」なる組織を発足させることからはじまった。最初の研究テーマは当時、全国で熱狂的ブームを巻き起こしていたコックリさん。以後、いわゆる妖怪や幽霊を皮切りに、狐憑、人魂、人相、家相、易占い、さらには怪音現象や念力写真に至るまで、ありとあらゆる怪異現象が研究の対象となつた。このため博士は実に全国二百ヶ所を越える実地調査を行ない、膨大な量の噂や体験談の収集につとめたという。
参考文献:板倉聖宣著「妖怪博士・円了と妖怪学の展開」

.野菜不足だった江戸人

 
江戸の人々はどんな野菜を食べていたのか。天保年間(1830〜43)、深川にあった青物屋「八百新」の記録からみてみよう。ちなみに青物屋とは今でいう八百屋のこと。八百屋と呼ばれるようになったのは明治以降のことである。
 さて、その記録によれば、店先に並んでいたのは、大根、東洋人参、小松莱、蓮根、ゴボウ、葱、クワイ、山芋、柚子、和林檎、それに大根の漬物と、こんな程度。当然、並ぶ季節は短く、ナス、スイカ、キュウリなどが置かれたのは真夏の一時だけだった。なお、スイカは江戸中期の渡来野菜。渡来野菜ではこの他にホウレン草、カボチャ、サツマイモなどがかなり普及していたといわれるが、それにしても種類が少ない。我々になじみ深いキャベツ、玉葱、トマト、白菜などはいずれも明治以降の輸入野菜である。当時の現状を考えれば、米作を義務づけられた農民にはそうそう野菜ばかりも作れず、また全国の産地から直送するだけの流通システムもない。百万都市江戸は慢性的な野菜不足にあえいでいたのである。
 そうなると心配なのがビタミン不足。案の定、江戸では脚気が流行した。全身がだるい。動くだけで動悸が激しくなる。夜になると視力が落ちる。体のあちこちに血腫ができる。死ぬ者も少なくなかったというが、ビタミンの知識もなかった時代、原因は不明だった。白米を腹一杯食べられればそれで満足というのが、当時の庶民感覚。大名など裕福な階層も偏食が著しく、かえって脚気になりやすかった。白米の普及がもたらした一種の現代病ともいえる。この奇病は、江戸を離れて田舎に帰るとピタリと治ったので大いに不思議がられ、“江戸患い”とも称された。田舎で新鮮な野菜を食べれば治るのは当然なのだが、その理由を人々が知ったのは、栄養学が輸入された明治の末頃だったという。

4.近郊野菜の生産地

 江戸の近郊野菜の生産地は隅田川を境に大きく東西に分かれ、それぞれ環境に応じた適地適作が行われていた。東側の葛西は海沿いで水利に富み、水気を好む蓮根、クワイ、里芋、葱などが主要な産物。中でも有名だったのが小松菜で、これらの作物は運河を利用して、神田や日本橋の河岸にあげられた。また江戸初期にごみ集積場があった葛西の砂村(現在の砂町)では、ごみが発する熟を利用した高度な促成栽培の技術が開発された。
 一方、隅田川以西の農業地は現在の練馬区を中心に南は杉並・目黒・世田谷区、北は板橋・北区、西は北多摩地域に及び、西山と総称されていた。こちらは養分の少ない関東ローム層の赤土に覆われ、水の便も悪い。そこで主力になったのは、大根、サツマイモ、山芋、東洋人参、ゴボウなど地中深くに根をはる作物。運搬の手段ももっぱら馬であった。
 葛西と西山はもちろん商売敵。長雨が続けば葛西は水びたしで小松菜の値が上がる。日照りが続けば西山では種蒔きも出来ず、大根の値が上がる。両者は空をにらんでは一喜一憂、対抗意識を燃やしたという。もっとも「豊作貧乏」の言葉がある通り、二割出来が良ければ五割値が下がるのが、米と違って野菜作りの難しいところ。需給のバランスで頭を悩ますのはどちらも同じであった。

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