沿道のコラム

(1)田端文士芸術家村散歩(田端駅−飛鳥山公園3.4Km)

 美術家や文士たちが移り住んだ大正期の田端は、草深い郊外ながら、大正モダンの香りあふれる芸術のみやこであった。

    1. 渋沢宋一と飛鳥山邸
    2. 紙幣の誕生
    3. 西南戦争と西郷札
1.文士たちの交流

 「近所にポプラ倶楽部を中心とした画かき村があるだけに外へ出ると黒のソフトによく逢着(ほうちゃく)する。逢着する度に芸術が紺絣(こんがすり)を着てあるいているような気がする」
 大正3年(1914)、田端に引っ越してきた芥川龍之介は、友人宛の手紙の中で、田端の印象をこう語っている。
 明治末頃の田端は、寺と坂道の多い風情ある郊外地で、上野の東京美術学校に近いことから美術家の住まいが多く、アトリエ付きの家が点在していた。「ポプラ倶楽部」は、そんな美術家たちの集まるテニスコート付の社交施設であった。近隣には白いエプロン姿の女給のいるモダンなカフェーや、気のきいた料理屋も多く、芸術家たちの闊歩する田端の街は、日本のモンマルトルとも呼ばれた。
 そこへ文壇の寵児であった芥川龍之介が移転してくると、田端には作家の往来が目立つようになり、芸術家村田端は、にわかに文士村の様相を帯びていく。大正5年(1916)には、室生犀星が田端に居を定め、萩原朔太郎と共同発行の詩誌「感情」を、第3号より田端の下宿(感情詩社)で発行し始める。以降、犀星は龍之介と田端の地で厚い友情を育んだ。
 文士たちは近隣の美術家たちも含め、田端を舞台に華やかな交遊関係を繰り広げた。その親睦会の一つが「道閑会」で、当時田端文化人のパトロンであった鹿島建設の重役鹿島龍蔵を中心に、龍之介、犀星、北原大輔、鋳金家の香取秀真、画家の小杉放庵、下島勲、久保田万太郎などが集まった。会場を持ちまわりにした気楽な歓談の場で、「面白い話しの連続と酒の勢を発揮して徹夜の宴となった(下島勲)」こともしばしばであった。
 やがて田端には龍之介や犀星を慕う新進作家たちが集まってくる。犀星の家には中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎、宮木喜久雄らが集い、文学サロンの趣があった。彼らは犀星の弟子であったが、誰一人先生という言葉は使わず、犀星を「室生さん」、龍之介を「芥川さん」と呼んでいた。そんな自由な土壌の中から生まれたのが、彼ら若手作家たちの同人誌「驢馬(ろば)」(大正15年(1926)創刊)であった。同人たちは室生家に近い宮木の下宿で編集会議をし、夕食どきには室生家になだれこんで食事をし、またドヤドヤと編集所へ戻っていくのが常であった。
 しかし、こうした文士たちの賑やかな時代も、昭和2年、田端の中心的人物であった龍之介の自殺によって終わりを告げる。翌年には犀星も田端を引き払い、その他の文士たちも次々と田端を去っていく。静かな郊外の住宅地に戻った田端から、文士村の面影は急速に消えていった。
参考:近藤富枝著「田端文士村」

2.花の行楽地 飛鳥山

 飛鳥山の名は、中世の豪族、豊島氏が紀州熊野の飛鳥明神を祀ったことに由来するといわれる。現在、飛鳥山公園内に残る2基の狛犬はその名残であるという。飛鳥山が花の名所となったのは江戸時代、八代将軍吉宗により桜の木が植えられてからである。鷹狩りにこの付近をしばしば訪れていた吉宗は、この地が生まれ故郷の紀州にゆかりあることを喜び、隅田川堤や品川御殿山などと共に、飛鳥山を市民の行楽地にしようとした。
 当時江戸で一番の花の名所といえば、上野の寛永寺。しかしここは一品(いっぽん)親王のお膝下、寺院境内という制約もあり、花見時間は日中に限られ、歌舞音曲も禁止されていた。そこで吉宗は、市民が心おきなく楽しめる場を提供しようと、享保5年(1720)から翌年にかけ、飛鳥山に1270本の桜の若樹を植えさせた。
 やがて若樹が見事に成長した元文2年(1737)、吉宗は、幕府の所有地であった飛鳥山を庶民の遊び場らしくするため、王子権現の別当寺、金輪寺に寄進する。その上で桜の満開時には吉宗自らお供を従えて飛鳥山に繰り出し、市民に率先して飲めや歌えの花見の宴を楽しんだ。この宴のいきさつを、飛鳥山の由来と共に記したのが、今も園内に残る飛鳥山の碑である。吉宗が儒学者成島道筑に書かせたものだが、一般の人にはほとんど読めない難解なもので、江戸の川柳には「この花を折るなだろうと石碑見る」などと皮肉って歌われた。
 ともあれ飛鳥山は吉宗の思惑通り、江戸近郊第一の花の名所となり、山下には数十軒の水茶屋ができ賑わった。文化・文政・天保年間(1804〜43)の町人文化全盛時代には仮装、鳴物、音曲お構いなしの飛鳥山は庶民の天下となった。またいつからか桜と共に飛鳥山の名物になったのが「かわらけ(土器)投げ」。山上から山下の青田めがけて土器を投げる遊びで、明治初年まで盛んに行なわれていたが、高崎線の開通と共に禁止された。
 明治6年、日本最初の公園の一つに指定されると、飛鳥山は東京各地の学校の運動会や遠足などにも利用されるようになる。明治時代以降も花見人気は衰えず、高崎線や大正初めに開通した王子電車を利用して、遠方からも続々と花見客が押しかけた。
 公園内に本格的な運動広場が造成されるのは、昭和2年。昭和15年に予定された東京オリンピックに備えてのことであった。昭和40年、飛鳥山公園が東京都から区に移管されると共に、大噴水を備えた「花と水と緑」の公園となった。昭和45年に高さ25mの展望台が完成し、飛鳥山公園のシンボルとして長く親しまれてきたが、平成5年に撤去された。
 その後公園の大規模改修により、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館がオープンした。その他公園内には野外式の能舞台、噴水や小川の流れ、お城やSLが配置された広場など多様な人々が楽しめるようになっている。もちろん、桜の名所としても健在である。

3.近代工業の幕開け

 明治の初め、北区域が近代工業の先進地となったのは、石神井川と千川上水の水力によるところが大きい。それに最初に目をつけたのが、日本橋の木綿繰綿問屋の鹿島萬平であった。明治3年(1870)、萬平は幕府の反射炉跡地に民間で初めての洋式紡績工場を設立する。
 当初この工場は、動力源である水車を設置するために穴を掘り、「穴の中の工場」と呼ばれた。英国から取り寄せた紡績機の据付には、アメリカ人の機械技師を高額で雇った。しかしこのアメリカ人は実は鍛冶屋か何かであったらしく、紡績機械の知識がないから、いつまでたっても機械の据付ができない。日本人通訳もセメントを漆喰と誤訳したため、水車が回転するとハネた水で壁が崩れ落ちるという始末。そんな試行錯誤を繰り返しながら、明治5年(1872)にようやく操業にこぎつけた。その間の莫大な出費に、萬平は借金とりに追われたという。
 その後工場に泊り込みで糸の改良に苦心した萬平の努力が実り、工場は徐々に軌道に乗っていく。強撚りの糸は「王子糸」の名で評判を呼んだ。この紡績工場が契機となり、北区内には多くの紡績工場が建設された。
 明治6年(1873)には、萬平の水車動力に学び、飛鳥山下に渋沢栄一が抄紙会社(王子製紙の前身)を設立。王子は洋紙発祥の地ともなった。この工場は英国人技師の指導のもとに建てられた西洋建築で、田園の中にそびえるレンガ造りの大工場は明治時代の名所となった。明治8年(1875)、大蔵省紙幣寮は抄紙会社の隣地に抄紙工場を設置、翌年から操業を開始する。この二大工場の出現は王子を急テンポで発展させた。明治18年(1885)抄紙部は、抄紙原料のカセイソーダ、硫酸などを製造する製薬課をつくるが、これがのちの日産化学、関東酸曹株式会社のもとになる。その後も王子周辺には多くの繊維関係、化学肥料の工場・試験場、軍の工廠群などが建てられ、昭和初期には「荒れにし郷も今やはや東洋一の工業地」と「王子町歌」に歌われるほどの工場地帯に発展した。

4.渋沢宋一と飛鳥山邸

 
わが国最初の銀行を創立するなど、日本の近代化のために経済界で活躍し、王子製紙を始め数多くの企業を創立した渋沢栄一は、明治11年(1878)、飛鳥山の広大な地に別荘を建て、明治34年(1901)から91歳で亡くなる昭和6年までここを本邸とした。
 飛鳥山邸は、4000坪の敷地の中に本邸、文庫、茶室などが樹林の間に点在しており、栄一はここを「愛依村荘(あいいそんそう)」と呼んだ。生涯6回本邸を移った栄一がここに邸宅を建てたのは、王子製紙に近かったこともあるが、一番の目的は、その広大な庭園を利用して外国からの賓客を接待することだった。彼の幅広い活動を物語るように、米18代大統領グラント将軍、インドの詩人タゴール、中国の蒋介石など、ここを訪れた要人は数多い。三度にわたり飛鳥山邸を訪れたタゴールは、道徳と政治経済の一致を唱える栄一の思想に共感し、「子爵のお話を開いているとヒマラヤの雪嶺を望んでいるような心持がする」(昭和4年)と語っている。
 また地元の人々にもここを開放し、園遊会を開いて親睦をはかり、時には小学生まで招待したという。関東大震災の折には、滝野川町は栄一の好意を得てここを食料配給本部とし、栄一の尽力によって得られた米が避難民に配給された。
 このように地元の人々にも親しまれていた栄一だったから、『滝野川町誌』の東京市併合祝賀会の項には、すでに故人となった栄一を偲び、「この日老子爵の温容、童顔に接することもできず」と記されている。
 飛鳥山邸は建物の大半を空襲で焼失、戦後敷地の3分の2を処分し、現在は大正期に建てられた晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫が当時を今に伝えている。

.紙幣の誕生

贋札大流行
 明治の初頭、国内には旧幕以来の藩札が依然として流通し、そのうえ新政府が財政難からやむなく発行した太政官札・民部省札などが流通の混乱に拍車をかけていた。しかもそれらは和紙、銅板刷の粗末な代物であったため、偽造が絶えず、上海を根城にした国際偽造団や、藩ぐるみでの贋札製造など、大規模かつ組織的な偽造事件が相次いだ。政府は贋金兌換の制を定め、贋札の回収につとめる一方、偽造には厳刑をもってのぞんだが、偽造は一向にやまない。思い余った政府は、防贋技術の進んだドイツのビー・ドンドルフ・ナウマン社に新紙幣の製造を依頼することにした。
 明治4年(1871)、設立間もない大蔵省紙幣寮(現印刷局)にドイツからの新札が到着。発行に先だち、これらの紙幣に「明治通宝」の文字を書き入れる運びとなった。当初は能書家が作業に当たっていたが、一向に能率が上がらず、途中から押印方式に切り換えることになった。だが当時は印肉・印刷インキの製造技術が未発達であったため、急遽アメリカ人科学者を雇い入れ、製造に当たらせた。そんな試行錯誤の後、新紙幣が発行されたのは翌年のこと。精巧な凸版印刷による多色刷りの新札は、ゲルマン紙幣と呼ばれ、話題を呼んだ。
 ところでこの年、「明治通宝」未押印の紙幣古枚が紛失する事件が起き、贋押印の札が出回るのをおそれた大蔵省が次のような布告を出した。「(紙幣寮の印章は)各印とも精良の肉を使い、押印せしむるに付、湯水にて洗ひたりとも決して消滅すること無し」。さらに湯水につけて指でこすれば、紙幣の真偽がたちどころにわかるとまで断言した。ところが、これを読んだ人々は、汚れた紙幣や怪しいと思う紙幣を受け取ると、石鹸水でこすったり、長時間湯水につけたりする者が現れ、ついには紙幣寮苦心の印章も消えてなくなるばかりか、紙まで溶けてしまうという事態が続発。慌てた政府は、以後は個人の勝手な試験を禁じたという。

国産紙幣への道
 一方、紙幣の製造を外国に依存するのは近代的国家の威信に欠け、費用もかさむことから、紙幣国産化の声が高まり、明治9年(1876)、王子に紙幣寮製紙工場、大手町に印刷工場が建設された。赤煉瓦造りの大手町の工場「朝陽閣」は文明開化のシンボルとして錦絵にも描かれ、東京の新名所となった。新工場には最新の外国製印刷・製版設備が導入され、イタリア人銅版画家キヨソネをはじめ欧米から多数の技師が招かれた。そして明治10年(1877)、ついに国産第1号の紙幣「国立銀行新券・1円」が発行された。
 さて、諸工業の未発達な時代のこと、紙幣製造のための印肉、用紙はもちろん、機械、薬品類も全て自給であったため、紙幣寮にはさまぎまなノウハウが蓄積されることになった。一時は印肉製造の副産物として、靴墨、石鹸、香水、絵の具まで製造し、製紙部門でも壁紙、テーブル掛けなどを製造、海外に代理店を置き製品の輸出も行なった。また写真版製造技術を生かし撮影所を開設し、一般市民の需要に応じた。「今日(大正8年/1919頃)社会にある大抵の品は以前印刷局において製造せし様記憶す」とかつての印刷局員は記している。紙幣寮は、これらの多角的事業により、日本の工業開発の先駆的役割を果たすことにもなったのである。
参考:「紙幣寮夜話」近藤金

6.西南戦争と西郷札

 幣制を整えつつあった明治新政府の財源に、大きな打撃を与えたのが、明治10年(1877)、西郷隆盛率いる薩摩軍との西南戦争であった。その鎮圧に当たり政府は、軍用資金として2700万円のゲルマン紙幣を投入。その中には損傷紙幣交換用に留保していた予備紙幣までが含まれていた。さらに設立途中にあった国立銀行からも1500万円を借入している。
 一方、これに対する薩摩軍の軍資金はわずか100万円足らず。そして、その内の14万円余りをまかなったのが、軍用紙幣「西郷札」である。西郷隆盛の威光を利用し、日向国宮崎郡広瀬で製造、発行されたもので、通用期間3ケ年、通用区域管内限りの、不換紙幣であった。
 10銭、20銭の小額紙幣はかなり流通したが、5円、10円などの高額紙幣は信用度が低く敬遠されたため、半ば威嚇的に商人たちに押しつけられた。兵士たちは隊を組んで富裕な商家で買物をし、10円札の釣銭を太政官札で受け取ったという。西郷札は西郷隆盛への信望でわずかに流通していたが、薩摩軍が鹿児島へ引き揚げてからは信用が失墜した。
 西南戦争後、西郷札による被害を被った地元住民から引換の申請が政府になされたが、賊軍発行のものであるとの理由で却下。札は政府に没収きれ、裁断処分に付された。一方、勝利した政府軍の多大な軍資金の投入は、急激なインフレを引き起こし、明治13年(1880)には、米と塩の価格が戦前の倍以上という事態を招く結果になった。

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